現在の白坂関門跡地・侵攻する新政府軍側からの景色 右側が旧奥州街道 |
新選組ゆかりの地・白坂関門は会津藩の藩境にある。
戊辰戦争の一つ、会津戦争が始まった地である。
新選組と白坂関門
慶応四年閏四月五日(1868年5月26日 ) 土方・山口次郎(斎藤一)ら新選組は松平容保から金子を与えらる。
慶応四年閏四月二十一日(1868年6月11日)
会津へ侵攻してくる新政府軍に備えるため、二本松藩兵が守備していた藩境にある白河小峰城へ田中左内が率いる会津兵と山口次郎(斎藤一)率いる新選組が入る。
東軍(会津軍)は西郷頼母を大将に、白河関門の裏にある稲荷山に陣を敷いた。
閏四月二十二日(1868年6月12日) 白河小峰城に入った新選組は翌二十二日、城外南方の白坂口付近に布陣する。
新選組は新政府軍を迎え撃つ最前線に居た。
四月二十五日(1868年6月15日) に白坂関門付近で新政府軍と激突する。
東軍(会津軍)は西郷頼母を大将に、白河関門の裏にある稲荷山に陣を敷いた。
西軍(新政府軍)側の記録によると、二十五日の白河・白坂関門の攻防は3時間にも及んだという。
この日の戦いでは敵を退けることに成功したものの激戦の中で菊池央(きくちおう)と横山鍋二郎が戦死。
五月一日(1868年6月20日) に行われた再戦では会津藩軍は大敗を期して白河口から撤退。白河小峰城は新政府軍の手に落ちた。
白坂関門跡
旧奥州街道はコンクリートで整備され、両側には民家や店舗が並んでいる。
大規模な戦争があった面影はない。
白坂関門はどこにあったか定かではないが、旧奥州街道の白坂市白坂101には白坂宿があったので境の明神から白坂101付近に関門があったと思われる。
白坂101には西軍の大垣藩銃隊長・酒井元之丞重寛戦死の碑があるためそれが目印。
大垣藩銃隊長・酒井元之丞重寛戦死の碑 |
白坂関門所在地:福島県白河市白坂101
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